宝塚といえば、煌びやかな舞台や華やかなショーを思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、その壮大な劇場の歴史が、実は温泉地のレジャーランドから始まったということをご存じでしょうか?
豪華絢爛なステージの裏には、鉄道事業とエンターテインメントを巧みに組み合わせた、一人の実業家の大胆なアイデアがあったのです。
今回は、その驚きの歴史を紐解きながら、宝塚がどのようにして日本を代表する文化の発信地となったのかを紹介していきます。
きっと、新たな宝塚の魅力に気づいていただけることでしょう。
宝塚大劇場の始まり:温泉地からのスタート
宝塚大劇場といえば、洗練された文化施設として知られていますが、そのルーツは意外にも温泉地の遊園地から始まっています。
明治時代までの宝塚周辺は、自然豊かでのどかな田園風景が広がる地域でした。
しかし、1910年に箕面有馬電気軌道が開通したことで、状況は大きく変わります。
当初は大阪と有馬温泉を結ぶ計画でしたが、経済状況の悪化により箕面から宝塚までの区間のみが建設されました。
小林一三のアイデアで誕生した宝塚新温泉
その後、経営を指揮していた小林一三(こばやしいちぞう)氏は、観光客を呼び込むために新しい娯楽施設を宝塚温泉に作るアイデアを思いつきます。
こうして1911年5月、「宝塚新温泉」が開業しました。
ここには広々とした大浴場に加えて、映画館や遊技場、屋内プール、さらに手頃な価格でモダンな洋食が楽しめるレストランなど、さまざまな施設が揃っていました。
宝塚歌劇団の前身、少女唱歌隊の誕生
しかし、この施設の屋内プールはあまり人気が出ず、日当たりの問題なども影響して早々に劇場へと改装されます。
この劇場で温泉客を楽しませるために結成されたのが、宝塚歌劇団の前身である「宝塚少女唱歌隊」でした。
この少女唱歌隊は、当時大阪の三越で話題を集めていた少年音楽隊をヒントに作られたものです。
1913年に最初の16人のメンバーが集められてスタートしました。
宝塚少女歌劇団の発展と大劇場の完成
少女唱歌隊は1914年に「宝塚少女歌劇団」と改名し、再スタートを切ります。
彼女たちの初舞台は、宝塚新温泉で開催された「婚礼博覧会」の際の余興として行われました。
その後、地元の新聞社である大阪毎日新聞の後押しもあり、大阪や神戸で慈善公演が行われるなどして知名度が上がっていきます。
1924年には、ついに4000人もの観客を収容できる「宝塚大劇場」が完成し、宝塚少女歌劇団は施設の主役として定着しました。
手塚治虫と宝塚の繋がり
また、宝塚出身の有名な漫画家である手塚治虫さんもこの時代を過ごした一人です。
彼は後に、宝塚歌劇団の人気スターであった淡島千景さんをモデルにして、「リボンの騎士」の主人公サファイアをデザインしたことでも知られています。
阪急電鉄と東宝映画の誕生
さらに、箕面有馬電気軌道は1918年に「阪神急行電鉄」へと改称され、現在まで「阪急」として親しまれています。
この会社の社長を務めた小林一三氏は、鉄道沿線の開発に加えて、宝塚歌劇団を東京にも進出させ、東京宝塚劇場を創設。
さらには映画業界にも進出し、1937年には東宝映画を設立しました。
小林一三の多彩な才能と事業の成功
小林氏は若い頃、小説家を志していたことから、芝居や演劇に対する深い理解を持っていました。
この豊かな経験と才能が、鉄道事業とエンターテイメントを融合させる独自の事業展開に繋がったのです。
まとめ
宝塚大劇場が、現在のように日本を代表する文化スポットとなるまでには、実業家・小林一三氏の大胆な発想と情熱がありました。
もともと温泉地の娯楽施設として始まった宝塚は、彼の手腕によって劇場に生まれ変わり、宝塚歌劇団という新たなエンターテインメントを生み出しました。
また、手塚治虫氏のような大きな才能を育んだ地でもあり、その影響は現在まで続いています。
鉄道事業と文化が一体となった宝塚の歴史は、単なる娯楽施設の枠を超え、多くの人々に愛される場所として成長してきたのです。
今後も、その歴史と魅力はさらに多くの人々に伝わり、発展していくことでしょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。