兵庫

【そもそもなぜ兵庫】知られざる兵庫県の誕生秘話:小さな役所から広大な県へ。

皆さんは「兵庫県」という名前がどのようにして付けられたか考えたことはありますか?
その由来や成り立ちについて知っている人は意外と少ないかもしれません。
神戸、姫路、但馬、淡路島など、多様な地域を含む広大な県。
でも、なぜこれらの地域が一つの県としてまとまったのでしょうか?

実は、兵庫県の誕生と発展には、明治時代の激動する日本の姿が映し出されています。
小さな役所から始まり、政治家たちの思惑や時代の要請によって形作られていった兵庫県の歴史は、私たちに多くのことを語りかけています。

この記事では、「兵庫」という名前の由来から、現在の広大な県域が形成されるまでの興味深い道のりを、わかりやすく解説していきます。
知れば知るほど面白い、兵庫県の知られざる歴史の旅に、どうぞご案内しましょう。

兵庫の名前の由来と県名の決定

まず、「兵庫」という名前の由来から見ていきましょう。
兵庫という地名には二つの説があります。

一つ目の説は、大化の改新として知られる乙巳の変(いっしのへん)の時期に遡ります。
この説によると、当時この地域に武器保管用の「兵庫(つわものぐら)」と呼ばれる倉庫が設置されたことが、地名の由来だとされています。

一方、別の説では、この地域の名前は「武庫(むこ)」という阪神地方の古い呼称から派生したとされています。
この説に基づくと、奈良時代以前において、現在の武庫川が海に注ぐ場所周辺が、この地域の中枢を形成していたとされています。
その後、時代の推移とともに、この地域の中心地は徐々に神戸方面へと移動していきました。
それに伴い、この場所は「武庫の湊(みなと)」と呼ばれるようになり、それが変化して「兵庫湊」になったといわれています。

明治維新と第一次兵庫県の誕生

では、なぜ県名が「兵庫県」になったのでしょうか。

それは、新しい役所(当時の言葉で「県」)が置かれた場所が兵庫(今の神戸市兵庫区)だったからなのです。
この決定は、日本の政治が大きく変わった時期に行われました。

1868年、明治元年、日本は大きな転換期を迎えていました。
江戸時代が終わり、新しい明治政府が誕生したのです。
この政府は、古い制度を改め、新しい地方行政の仕組みを作ろうとしていました。
新政府は、旧体制下で幕府が直接管理していた地域の裁判所(現在の役所に相当)を閉鎖し、代わりに現代の地方自治体に近い組織を設立しました。
これらの新しい行政組織は、一律に「府」または「県」という名称で呼ばれるようになりました。
これを「府藩県三治制」と呼びます。

この時、現在の神戸市兵庫区切戸(きれと)町にあった裁判所が「兵庫県」と名付けられ、兵庫の津(ひょうごのつ)(現在の神戸港の一部)周辺の旧幕府領を管理することになりました。
これが「第一次兵庫県」の誕生です。
興味深いことに、初代の兵庫県知事には、後に日本で初めて内閣総理大臣になる伊藤博文が就任しています。

しかし、この時の兵庫県はとても小さなものでした。
神戸港の周辺と、少し離れた場所にある播磨(はりま)地区の一部を管轄していただけです。
周りには姫路や明石、尼崎などの藩(今でいう独立した小さな国のようなもの)があり、これらの地域はまだ兵庫県には含まれていませんでした。
また、旧幕府領の伊丹(いたみ)と宝塚は、現在は兵庫県なのですが、この時は大阪府の管轄だったのです。

廃藩置県と第二次兵庫県の形成

1871年(明治4年)になると、政府は「廃藩置県」という大きな改革を行いました。
これは、それまでの藩をすべて廃止して県にするという政策です。
この時、現在の兵庫県の地域には、兵庫県(摂津(せっつ)の西部5郡を管理)の他に、飾磨県(しかま)(播磨全域を管理)、豊岡県(但馬(たじま)全域、丹後(たんご)全域、丹波(たんば)3郡を管理)、名東県(みょうどう)(阿波(あわ)および淡路全域を管理)という3つの県が誕生しました。
これを「第二次兵庫県」と呼びます。

面白いことに、この時点での兵庫県は、飾磨県や豊岡県よりも小さかったのです。
また、姫路は有名な場所だったので「姫路県」になるはずだったのですが、政府は古い幕藩体制を連想させる名前を避けたかったので「飾磨県」という名前に変更しました。

府県統廃合と第三次兵庫県の完成

そして1876年、明治9年、政府はさらに大きな変更を行います。
いくつかの県を一つにまとめる「府県統廃合」という政策を実施したのです。
この時、飾磨県と豊岡県の西部、そして名東県の淡路島が兵庫県に合併されました。
これによって、今のような広い兵庫県がほぼ完成しました。
これ以降を「第三次兵庫県」と呼びます。

ここで興味深いのは、小さかった兵庫県が大きな飾磨県や豊岡県を吸収したことです。
普通に考えれば、大きな県に小さな県が吸収されそうですが、逆になったのです。

その結果、兵庫県は「大兵庫県」と呼ばれるほど大きな県になりました。

大兵庫県誕生の裏側

なぜこのようなことになったのでしょうか。
その裏には、当時の政治家たちの思惑がありました。
特に大きな役割を果たしたのが、内務省地理局長の櫻井勉(さくらい つとむ)という人物です。
彼は、再編の最高責任者である内務卿(当時の実質的な首相)である大久保利通(おおくぼ としみち)に、県の再編について提案をしていました。

最初、櫻井は豊岡県を飾磨県と合併させることを提案しました。
しかし大久保は、「港がある兵庫県を小さいままにしておくのはよくない」と考え、櫻井に計画を練り直すよう指示しました。
大久保は、外国との交易ができる港を持つ兵庫県を重要だと考えていたのです。

そこで櫻井は新しい案を考えました。
豊岡県の丹波・天田(あまた)郡と丹後1国は京都府に編入し、残る但馬1国、丹波2郡と飾磨県、そして兵庫県を合併するという案です。
櫻井はこの案について、「兵庫県は南の海から北の海まで達する、天下無類の大きな県になる」と説明しました。
大久保はこの案を気に入り、採用しました。

こうして兵庫県は、日本で12番目に大きな面積を持ち、近畿地方では最大の県となったのです。
現在の兵庫県の広大な県域は、こうした歴史的な経緯を経て形作られました。

兵庫県の歴史を振り返ると、政治的な決定や地理的な特徴が、県の形成に大きな影響を与えてきたことがわかります。
小さな役所から始まり、いくつもの変遷を経て、現在の大きな兵庫県になったのです。

この歴史は、地方行政の仕組みがどのように変化してきたかを示す良い例でもあります。
明治時代の新しい政府が、どのように国を再編成しようとしたのか、その一端を垣間見ることができます。

また、兵庫県の例は、地名や行政区分が必ずしも自然に決まるわけではなく、その時々の政治的な判断によって大きく左右されることを教えてくれます。
特に、港の存在が県の形成に重要な役割を果たしたことは興味深いポイントです。

現在、兵庫県は多様な地域を含む広大な県となっています。
海沿いの都市部から山間部まで、様々な顔を持つ兵庫県。
その多様性は、このような複雑な歴史的背景があったからこそ生まれたものだと言えるでしょう。

まとめ

兵庫県の歴史を振り返ると、兵庫県がいかに複雑で興味深い過程を経て形成されてきたかがよくわかります。
「兵庫」という名前の由来から始まり、明治維新後の行政改革、廃藩置県、そして府県統廃合と、兵庫県は時代とともに大きく変化してきました。
小さな役所から始まった兵庫県が、今日の広大な県域を持つに至った背景には、港の重要性を認識した政治家たちの決断がありました。
特に、櫻井勉と大久保利通の関与は、兵庫県の運命を大きく左右したと言えるでしょう。

兵庫県の形成過程を学ぶことは、明治期の日本がどのように近代化を進めていったかを理解する上でも重要です。
地方行政の仕組みの変遷や、政治的決定が地域の形成にどう影響するかを具体的に示す良い例となっています。

最後までご覧いただきありがとうございました。

-兵庫