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芦屋市の知られざる歴史を探る~もし打出市が誕生していたら?

「芦屋市はひょっとしたら、打出市になっていたかもしれない!」この意外な可能性を知ったら、あなたも驚くことでしょう。
阪神打出駅周辺に広がる打出町と打出小槌町は、実は深い歴史と独特な文化を持つ地域です。
打出という地名には、民話や歴史的な出来事が色濃く反映されており、神功皇后の伝説や「打出の小槌」にまつわる話が語り継がれています。

さらに、江戸時代には打出村と芦屋村が幕府の天領として共存しており、合併の際にはどちらの名前が残るかという激しい争いがあったのです。
もし当時の決定が少しでも違っていたら、今私たちが知っている芦屋市は果たしてどのような姿をしていたのでしょうか?

この記事では、打出地域の歴史や文化を深掘りし、あなたをこの不思議な物語の世界へと誘います。
さあ、一緒に打出の魅力を探求してみましょう!

打出の地名の由来

芦屋(あしや)市の阪神打出(うちで)駅の周辺には、打出町と打出小槌(こづち)町という2つの地域があります。

この「打出」という独特な地名にはさまざまな由来があり、明確な答えは存在しません。
民話に基づく説では、打出の小槌を持った裕福な人がこの地に住んでいたとされています。
また、神功(じんぐう)皇后がここから三韓征伐に出発したことに由来するという説もあります。
さらに、古くは京都から九州・大宰府(だざいふ)へ向かう西国街道を下ってくる際に、初めて海に出る場所だったため「打出」と名付けられたという話も広く知られています。

江戸時代の打出村と芦屋村

もともと「打出」という名称は、現在の芦屋市南東部を指していました。
その一方で、六甲山の南側には芦屋村が存在していました。
江戸時代には、打出村と芦屋村はともに幕府の天領に属しており、打出村は芦屋村よりも若干多くの戸数を持っていました。

精道村の誕生と村名の決定

歴史的な記録によると、1889年(明治22年)の戸数は、打出村が252戸、芦屋村が247戸、三条村が37戸、津知(つぢ)村が18戸となっています。
これにより、打出村と芦屋村はこの地域の主要な集落として存在していました。

これら4つの村は、1871年(明治4年)の廃藩置県によって兵庫県に組み込まれ、1889年に町村制が施行される際に合併し、精道(せいどう)村が誕生しました。
新しい村名の決定に際して、打出村と芦屋村はそれぞれの名前を主張し譲らなかったため、最終的に精道小学校の名を取る形で新村名が決定されたのです。

芦屋市への改名とその背景

1940年(昭和15年)、武庫郡精道村が市制施行と共に「芦屋市」へと改名されました。
この名称は、地域に長く親しまれてきた「芦屋」という地名が採用されたものです。

市名の決定は、多数決によって行われる予定でした。
旧打出村と旧芦屋村で比べると、当時の戸数は旧打出村の方が多かったため、多数決で選ばれると「打出」の名称が有利だったと考えられます。
しかし、市名を決定する重要な会議の際、偶然にも旧打出村の代表が席を外したタイミングで投票が行われ、その結果「芦屋市」として決定されたという話が残されています。
この逸話が事実かどうかは明らかではありませんが、地元では今も伝えられています。

現在の打出地域の特徴

現在、地名としては打出町と打出小槌町が残っており、駅名としても打出駅が存在します。
また、国道2号線には山打出交差点があり、その近くにあるJRの踏切には「打出村踏切」という表示も見受けられます。

芦屋市では過去に、1968年(昭和43年)5月に住居表示が行われた「打出若宮町」を「若宮町」と改名した例があり、旧・打出村の地域内の各町は、住居表示実施と同時に「打出」を地名から外していました。
しかし、「打出小槌町」は残りました。
1983年(昭和58年)2月1日を目処に「打出小槌町」を「小槌町」に改名する動きが進められたのですが、「『打出の小槌』伝説を守るべきだ」との声が住民の間から強く上がり、地域の由緒ある地名を維持したいとの住民運動が展開されたのです。
この運動はおよそ5年9か月にわたり続きました。
その結果、1988年2月1日に「打出小槌町」の名称はそのままで住居表示が実施されることになりました。
この住民運動は、地域の歴史や伝統への強い思いが込められた象徴的な出来事となり、今でも地元では語り継がれています。

一方で、精道という町名は阪神芦屋駅の南側に残っており、芦屋市役所もこのエリアに位置しています。

まとめ

この記事では、芦屋市が実は「打出市」になっていたかもしれないという興味深い可能性を探ります。
阪神打出駅周辺の打出町と打出小槌町は、民話や歴史的背景が豊かに息づく地域です。
江戸時代には打出村と芦屋村が共存し、合併の際にはどちらの名前が残るかという争いがありました。
もし当時の決定が異なっていたら、今の芦屋市は違った姿をしていたかもしれません。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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